昨日、うめちゃんに誰にも言わないでおこうと思っていた話をひとつ打ち明けてみた。
もしかしたら動揺させてしまうかもしれないな、と思っていた部分で、うめちゃんが動揺しないでいる素振りを続けてくれたから、わたしの話すことにたいする覚悟みたいなものが決まって、なるべくまっすぐに自分の気持ちを言葉に乗せられるように努めた。
普段わたしは、受け取ってもらえるかわからない不安と、できれば受け取って欲しいという期待を心の中にちょうど半分ずつ持っていて、それをぐらぐら揺らしながら話をしているような気がする。
うめちゃんの前にいるときは、きっと受け取ってもらえるだろう、みたいなどっしりした安心がわたしをそこに居させてくれて、打ち明けてみたいという自然に湧いてくる気持ちを解放してあげることができるし、自分にしてはめずらしくまっすぐ目を見て話すことができた。
この前、友だちのもうすぐ一歳になる赤ちゃんを抱っこしようとしたら、初対面のわたしに見られることが恥ずかしかったみたいで、近づこうとすると照れながら顔を背けられてしまった。何度やっても、ちがう方向から近づいても、ずっとそれが続いて、友だちが「恥ずかしいんだね」と言った。
人から顔を背けようとするその様子がどこか自分に似ていると思って、恥ずかしい、って何のために起こる感情なんだろうって思った。
何が恥ずかしいの?どうして恥ずかしいの?あなたを恥ずかしくさせているものは何?じゃあ、わたしはどうして恥ずかしいんだろう。
恥ずかしいことだよ、って言われたことがある。たしか保育園の年中のとき。 給食がいつも全部食べられなくて、先生がわたしの机の横に立ってそうやって言った。どう頑張ってもこれ以上からだに食べ物が入らない苦しさでいっぱいになって、たぶん本当は泣きたかったけど、苦しすぎて泣くこともできなかった。
みんなはもう掃除をはじめる準備をしていて、自分の机だけが離島みたいにぽつんと教室の中に残された。そのときに、この気持ちが”恥ずかしい”なんだと思った。
本当はこんなことを書く予定じゃなかった。 最初はもっとちがう方向に話を進めながら、着地したい場所みたいなところがあったはずなのに、かなり遠いところに来てしまった。 どんなところを目指していたのかと言えば、こういう、自分の脈略もない昔の話とか、個人的な記録が持つ意味みたいなことを最近考えていて、言葉として残ってしまうことの違和を感じることが増えた。
だけど、もしも自分が灯台だったとして、言葉が点滅する光なら、やっぱりそれをやめないでいたいというか、やめずにいてほしい、という気持ちが自然に湧いたことを書いてみたいと思った。
今日の朝、うす暗い海の近くにある灯台の夢の中にいて、孤独に点滅を続ける信号の光を見ていた。そして、ただ点滅を続けることがとても重要なことなんじゃないかって思って、うまくはたらかない頭で、うまくできなくてもいいから、と思いながらこれを書いている。
今日はとても暑くなるみたいで、やっぱりはやくクーラーをつけなきゃだめだね、って同居人に言おうと思ってること、もしお昼過ぎに起きられたらアケルマンの映画を観に行きたいと思ってること。枯れた植物を燃えるゴミの袋にいれることにいつも抵抗がある、と思いながらもそのまま袋に突っ込んでしまうこと。
こういうことは別に書かなくてもいいかな、と思って、そう思ったことを忘れていた。そしてまた別のことを書きながら、なぜか脈略もなく思い出した。
どうしても書きたいこと、書きたいと思ってしまうこと、書かなくてもいいと思うことの間にあるもの。それが一体何なのか知りたい。
Comments