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  • Writer's picturefuzuki hoshino

20230316

朝、顔が眩しくて目を開けたら部屋の中がオレンジ色に染まっていた。 ここはどこだろう、と一瞬思って、海辺の宿に泊まっていたことを思い出した。

窓を開けて見ると、海に朝日が反射してすごく光っていて、眠っていたうめちゃんを思わず起こしてその様子を見せた。


私はそのまま着替えて、吸い込まれるように海の方に降りていった。なるべくはやく海岸に着きたかったけれど道のことがわからないから、とにかく一番早く下に降りれそうな急な階段を選んだ。真鶴の海はおだやかで、ほとんど波がない。


昨日の夕方も海岸でひとりぼーっとしていて、そのときに触ってみたら、海水は思ったよりもあたたかくて、なぜだかそのことにすごく安心した。 波が岩にあたって、じゃぶじゃぶ音を立てているのが心地よくて、この波にやさしく浸食されてきれいに無くなってしまいたいと思いながら波をみていた。

昆布とか、わかめがゆらゆらしていて、海の匂いがした。 最近ずっとなぜだかぼんやりかなしくて、だけどどうしたらいいのかずっとわからずにいたのだけど、その匂いを嗅いでいたら、そのかなしみは私のものではなくて、誰かのかなしみなのかもしれない、とふと思った。





太陽が昇りきるまえの海は、釣りをしているおじさんがひとりいた。

大きな岩を渡って、なるべく海の方に近づいてみる。どこかから船が戻ってきて、迷うことなんてないみたいに水面を滑って港の定位置に落ち着いた。

水平線のあたりは霞んでいて、その先になにがあるのかまったくわからない。

絵の具でわざとぼかしたみたいに、濁った水色が空と海の間にあった。


宿に戻ると、うめちゃんは起きていて、ほんとうに取り憑かれたみたいに部屋を出ていったね!と私を笑った。


朝ごはんまでの時間は手持ち無沙汰で、窓から海を見たり、壁に飾られていたすごい配色の絵を観察して、一瞬で飽きたりしていた。

そういえば、と思い出して、先日東京で撮ってもらった写真の現像があがってきたので、うめちゃんに見てもらった。

自分が写っている写真をこんな風に自然に人に見せた試しがないので、自分のその行動について少し意外に思いつつも、やっぱり誰かに見て欲しいんだな、と思ったり、それくらいうめちゃんにたいして心をゆるしている、というかひらいていたいんだな、と感じた。


「今までの文月ちゃんの写真って、いつでもどこかへ消えてしまいそうな危うさがあったけど、これはちゃんとここにいるね」とうめちゃんが言った。

わたしは、その言葉をもらえたことが結構うれしくて、「そう思う?」って何度もわざとらしく聞き返した気がする。


これまでの私は本当に自分がここにいるのかわからないから、確かめてみたくて、写真に撮られることが多かった(あまり共感を得られたことがない感情)。

だけど、この前撮ってもらった写真は、はじめて、自分が思う、そのままのかたちで写れた気がしていて、だからそれを人が見たらどう感じるのかを知りたかった。


何かに抵抗するみたいな形をとることでしか、「いる」ということができなかったように思う。いや、本当はずっと「いた」のだろうけど、時間?重力?何か目に見えないものに逆らったときにできる抵抗感みたいな感触をリアルだと思って生きてきたような気がする。

だけど、そんなことをしなくたって、ずっとここまで「いた」のだし、どうしてそれをうまく受け入れることができずにいるんだろう。


ご飯を食べて、今度はうめちゃんと一緒にまた海に行った。

太陽はすっかり高い位置にあって、水面がきらきら光っていて眩しい。

私は海をみるとその在りかたに何度でも新鮮に感動できてしまうのだけど、それは自分がずっと海のない長野県で過ごしていて、小学五年生まで一度も本物の海を見たことがなかったことが関係しているのか、そんなことは特に影響していないのかわからない。


思いがけず春の海に来れたことがうれしくて、自分がここにいても、いなくても、うれしいと思えた気持ちがあったことを残しておこうと思った。



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