4時頃目が覚める。あたまはずっとぼんやり起きているみたいで、やっぱりずっと深く眠れない。だけど、昨日から富士見(実家)に居て、1か月ぶりくらいに帰ってきたけどやっぱりからだがとても楽。土地が合っているとじんわり感じる。
なるみちゃんから教えてもらったセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』を観た。
朝方の誰も起きていない静かな時間にひとりで観るのにぴったりな映画で、とてもうつくしくて、あたまがさらにぼんやりとしてしまった。
クィア映画として語られることが多い気がするけれど、ただ彼女たちの人としてのうつくしさや、生きてきた時代背景、抱えている(押しつけられている)問題が自然と立ち上がって、そこに浮かんでいるものをこちらがゆっくり受け取れるような映像だった。 この映画がクィアの文脈として評価されない日が来るといいな、と思った。
母と妹が起きてきて、テレビをつける。テレビを普段見ないので、音やひかりが気になってしまう。自分だってスマホを観ながらご飯を食べたりよくするけど、テレビの過剰な音や演出は結構つかれる。テレビがある生活にすっかり慣れている母にそのことを伝えようとしたけど、ぜんぜん理解してもらえなかった。
わたしは外に散歩に出ることにした。
今月で閉店してしまう今井書店まで歩いた。ラジオを聴きながらいこうとおもったけど、イヤホンを耳に挿しただけでなんとなく満足してしまい無音で、八ヶ岳とかを見ながら歩いた。
新刊の欲しい本がいくつかあって、きっと売っているだろうと思って行ったけど、お店の人に尋ねてみると「今月閉店してしまうからいつもより入荷を少なくしていて、その本は仕入れがない」と言われる。
店員さんも申し訳なさそうだし、わたしもかなしかった。ここで買いたかったな……と思いながら、物を買いたいという気持ちが一気に萎んでしまった。
(レジへ商品を持って行って、お財布を出して、人にお金を渡して、お釣りを受け取る、という一連の動作で成り立つ”買い物”ってわたしにとってはかなり体力が必要で、精神的に大丈夫なときや体力がちゃんとあるときじゃないと買い物をするのがむずかしい)
わたしは買い物をあきらめた。また同じ道を歩いて家に帰る。
図書館も臨時休業中で、読みたい本がすぐに読めない状況に心が削られる。散歩をしながら、いろいろ考えたり、考えるのをやめたりしていたらだんだんと気持ちが落ち着いた。
生理前だからか食欲がいつもの3倍くらいあって、たくさん食べたのにお腹がすく。
自分の身体が自分のものじゃないみたいでこわい。そもそもからだをコントロールできると思っていることが間違いなのかもしれない。
半年前から婦人科でもらった薬を飲んでいるけど、ホルモンを過剰に分泌させる成分が入っていて、この期間は胸が張り裂けるんじゃないかと思うくらい痛い。皮膚が引っ張られて、そこに無数のちいさな針(リンパ?)が刺しこまれている感じ。
せっかく体重が安定してきたのに、また勝手にからだは膨らむし、重くなって、気持ちまで暗くなりそう。
いっそのこと、このままたくさん食べて球体になってしまってもいいかもしれない…とか考えていたら、猫が隣で丸まって眠っていた。
かわいいね、かわいくてえらいね、と言いながら、しつこく何度も撫でたらザラザラの舌で顔を舐められて、うっすら赤い傷のような痕ができた。その痕を触りながら、傷つけられてもうれしい、みたいなことがあるような気がした。
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