朝、はやく起きる。雨が突然たくさん降って、そのあと一気に晴れて太陽がのぼった。 濡れた道路が光を反射して金色に光って眩しい。目を細める。道端に咲いているチューリップとか水仙の花についた水滴がきらきらしている、ぜんぶ光っていた。
昨晩は地元の富士見町で『プールの底から月を見る』のイベントがあった。
1月に計画していたけど、私が当日に体調をくずして(結局コロナで)延期になっていた企画。
昨日はずっと気圧のせいで頭が痛くて、軽く眠るつもりがぜんぜん起きれなくて、夕方に眠りの沼にはまって抜け出せなくなった。イベントの30分前くらいになんとか起きて、頭がはたらかないまま家を出た。
会場にはいろいろな場所から集まってくれたひとがいて、みんな私の本を持ってきてくれていて、うれしくてびっくりする。
石垣さんがはじまる前に「今日はどんな会にしましょうか」って参加者のみんなに尋ねていて、その感じにすっかり安心した。外は寒くて、ずっと小雨が降っていて、その音にときどき意識を向けられるくらい気持ちをほどいたまま私は過ごすことができた。
作中に出てくる場所は富士見町のじっさいの場所を書いたものが多くて、「この神社は駅の後ろにある神社です」とか「あの歩道橋は、国道20号の上に架かっているあの橋です」とか、紹介したりした。
朝方に見た映画、『All the Bright Places』の中にあった台詞で、すごく今の自分に響いたところがあって、
“There are places that need to be seen. Maybe even the smallest of places can mean something. At the very least, maybe they can mean something to us.”
(少なくとも僕たちにとっては、まだ見るべき場所がある。どんなにそれが小さくても、何かしらの意味があるんだ。)
私が表現を続けていきたい理由って、そういうことなのかな、って漠然と思った。
何もなくてすごくいやだと思って飛び出した地元の町にまた戻ってきて、こういう話をしている不思議。時間を経て戻ってきたから書くことができたことがいっぱいあって、私にとって、ここが見るべき場所になったこととか、そういう話をどうにか言葉にして話した。
思考は話しながら散らばりつづけて、いつも予想できなかったところに辿り着いてしまう。そこにいたみんながやさしくて、うまく話せなくても大丈夫、って言葉じゃなくて態度ですごく伝わってくることとか、個人的なことをここの場所で打ち明けてくれたこととか(打ち明けてもいいと思ってくれたこと)、そういうここに居たから感じられたことがいっぱいあった。
最近の私は、書くことからちょっと離れてみようかなと考えていて、それは言葉に頼りすぎて、言葉でしか受け取れなくなってしまうことの多さに自覚的になると、これでいいのかな?と思うことがたくさん増えてきた。
そこにあるものの雰囲気や、色、表情、話す前の戸惑いや、空白、みたいなものを、言葉にする前に受け取る練習をもっとしていきたくて……と、そういう話をしながら(また話はどんどん飛ぶ)あの瞬間はそれができていたのかもしれない、と帰り道にまた雨の音を聴きながら思った。
帰宅すると私の服がびしょびしょで、母に「本当に傘をさしてきたの?」と笑われる。
そのまま洗面所に連れていかれて、そこにあったバスタオルで犬みたいにわしわしからだを拭かれた。
「子どもみたい」と私が言う、「あなたはずっと私の子どもだよ」と言われる。
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