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  • Writer's picturefuzuki hoshino

20230301

週末東京へ行ったときに、久しぶりにうっちーと会った。

一緒にファミレスに行ったけどなんとなくそわそわして、当たり障りのない共通の友人の話などをした。誰が結婚したとか、そういうやつを。 昔みたいに一歩踏み込んで話そうか、そうするのをやめようか考えているうちに、私の次の予定の時間がきて先に退出することになってしまった。うっちーはまだ注文したコーヒーゼリーを半分も食べてなかった。うっちーから何かを言いたそうな気配を感じた。たぶん、気のせいじゃないと思った。それが何だったのか気になりながらも私は店を出る。


それからワークショップがあって、うっちーはそこにも参加してくれた。何かを一緒に取り組むという時間を通して、ファミレスで面と向かって話すよりも心の距離が近くなった実感があった。

イベントが終わると、うっちーは突然わっと泣き出して、私は驚いてどうしたの、と近寄る。

「ふーちゃんが学生の頃の話を文章に書くときに、いつもつらかった、とか自分にとって嫌いな時間だったみたいな表現を使うから、その頃ずっと近くにいた私としてはとても傷ついて。だけどそれを直接伝えるかずっと迷って言えなくて、だけどやっぱり伝えようと思ってここへきた」と言った。

私は「ごめんね」と謝った。いろいろ弁明しようと思えばできたと思うけど、それをやることの意味が自分でわからなかったから、ただ謝った。それから、伝えてくれてありがとう、と言った。

いつも、書くという行為の暴力性について考えなきゃいけないと思う一方で、自分は一体何に対して責任を持てばいいのだろう、と思ってわからなくなる。

何も書かないほうがずっといいんじゃないかと思うことがよくある。だけど沈黙していたい訳じゃないし、やっぱり書きたいと思ってしまうことがあって、結局その欲に抗えなくてこうやって自分にあったことや、身近な人のことをまた書いてしまう。


少し前までは、自分が生きているだけで誰かを傷つけ続けてしまう可能性のことを思ったら、結構耐えられなくて、とても楽しくなんて生きていけないと思った。

今、その時よりも少し気楽に生きられているのは、そんなことを考えて、考え続けてもどうしようもない、と思ったのと、考えることに疲れて飽きてしまったのだと思う。

自分が他者を傷つける、暴力性を孕んだ存在であることをずっと戒めみたいに、強く思い続けることで許してもらえると思っていたのかもしれない。


うっちーの目を見たら、あの頃と何も変わっていないような気持ちになって、なんで私たちは三軒茶屋にいるんだろう、って不思議になった。


気がつけば3月になっていて、未消化のままになっている気持ちがかなりたくさんあることを今日あらためて実感した。今朝起きたら急に春がやってきたみたいにあたたかくてびっくりする。

近くの高校の前を通ったら「卒業おめでとう」という看板が門のところに貼ってあった。もう学生の頃のこととか、ほとんど思い出せなくてこれからは書くことはないんじゃないかと思う。書く必要が自然となくなってきた気がする。


春はどうして風が強いんだろう、って考えながら歩いていて、風にあたっている瞬間は寒いけど、風の芯はあたたかい、と思った。私が気がつかないだけで時間は進んで、季節は変わっている。

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