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  • Writer: fuzuki hoshino
    fuzuki hoshino
  • Mar 26, 2023

0324

富士見からあずさに乗った。新宿ついて、妹から頼まれていたお使いで伊勢丹へ行った。

そのあと駅で有吉さんと金川さんと待ち合わせする。私が「アルタ前にいる」と言って、ライオンズクラブ?の像のところでずっと待っていたらふたりとなかなか合流できなくて、位置情報を送ると「アルタ前の定義が広すぎる」と言われた。私は東口地上の交番あたりまでの範囲のことをアルタ前というのだと思っていた。

大久保の方まで話しながら歩いて、韓国料理屋に入った。金川さんは初対面だったけど、そんな感じがあまりしなかったのが不思議。話しやすくて一緒に居るととてもやわらかい気持ちになった。ビールを飲んでサムギョプサルを食べながらいろいろな話をした。ずっとお話ししたかったからやっと会えてうれしかった。

そのあと金川さんが招待してくれたので、森美術館で六本木クロッシング2022展を見た。

ひさしぶりの森美術館にめっちゃテンションあがる。展示は見ごたえがあったけど、私はトークイベントの打ち合わせがあったから一時間も居られなくて駆け足で会場を回った。有吉さんを残して、文喫に向かう。

それから、担当の方と打ち合わせをして、あっという間にイベントの時間になる。 東京の友だちがたくさん来てくれて嬉しかった!うまく話せたかどうかは自信がないけど、ラムチョが「文月ちゃんにお願いしてよかった」と最後に言ってくれたからそれで良いと思った。 人前で1時間半話し続けるということは、思っていたより疲れることで、ゆかことゆかこのお父さんと合流してから「何食べたい?」と言われたので「肉がたべたい!」と言った。 中目黒まで移動して、結構夜おそかったけれど焼肉をわしわし食べた。


0325

ゆかこの家で起床。昨日の余韻なのか脳が忙しく動いていて、あまり眠れなかった…。

雨の音が気持ちよかったけど、目が冴えていて、眠ることもできなさそうだったのでSNSで昨日のイベントのレポートみたいなものを書いた。それで更に覚醒してしまった。

寝たり起きたりを繰り返していたら、家主たちは居なくなっていた。

バスに乗ってまた中目に移動。万季さんと待ち合わせして、ご飯を食べに行く。

人が居ない方になんとなく歩いていたら目の前にいい感じのメキシコ料理のお店が現れたので入る。松本ではタコスが食べられるお店がないからうれしかった。

モヒートとかビールとか、今日も昼間からお酒を飲んでたのしい気持ちになる。 万季さんとゆっくり話したのは4年ぶりくらいだったけど、考えていることとか、抱えている問題意識とか近いものがあってたくさん話をした。 私の新しい生活のことも話せて、興味を持ってもらえてうれしかった。やっぱり、どうしても書きたいテーマなので、無理なく記録しながら考えていきたいとあらためて思う。


渋谷に移動してゆかこと合流。タワレコにアンジュルムの巨大広告を見に行く。

こういう推し活みたいなことをするのがひさしぶりで楽しかった。あたらしいアルバムのジャケットがとてもよかったけど、渋谷のタワレコは在庫切れでCDは買えなかった。買えなくて残念な気持ちと、応援しているグループの作品がたくさん売れていてうれしい気持ち。

4月のツアーチケットがあたったのでかなり楽しみ…ライブがひさしぶりすぎて情緒がおかしくならないか若干心配…。


バスに乗って目黒。ゆかことスーパーに行って、食材を買って帰宅。

ゆかこが子供と遊んでいるあいだ、私はジョージ朝倉の「ハッピーエンド」を読んでた。

夜ご飯を食べたら急に眠くなって、早めに寝た。


0326

朝、まひろくん(ゆかこの子供)の泣き声で起きる。あんなに朝が苦手だったゆかこが、早朝から子供をあやしていて勝手に感慨深くなってしまう。

思いがけず早起きできたので、家をでて駅まで歩いた。目黒川のところは連日の雨で桜がたくさん散っていてきれいだった。

東京に居た頃は、池尻大橋から中目黒まで川沿いを何度も歩いた。夜の目黒川の世界の底みたいな暗い色と、どぶの匂いをかぎながら歩くとすごく気持ちが落ち着いて、ひとりで音楽を聴きながら散歩していた記憶がある。まだ会社員だったころの話。


山手線に乗って、新宿へ行く。30分後に出るあずさがあったのでそれに乗った。 目の前にいた海外のカップルがあずさの出発音のメロディーに合わせてすごい踊っていて、それがよかった。ふたりが躍っていたからはじめてあずさの出発のメロディーを意識した。

東京は細かい雨がずっと降っていた。

 
  • Writer: fuzuki hoshino
    fuzuki hoshino
  • Mar 22, 2023

4時頃目が覚める。あたまはずっとぼんやり起きているみたいで、やっぱりずっと深く眠れない。だけど、昨日から富士見(実家)に居て、1か月ぶりくらいに帰ってきたけどやっぱりからだがとても楽。土地が合っているとじんわり感じる。


なるみちゃんから教えてもらったセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』を観た。

朝方の誰も起きていない静かな時間にひとりで観るのにぴったりな映画で、とてもうつくしくて、あたまがさらにぼんやりとしてしまった。

クィア映画として語られることが多い気がするけれど、ただ彼女たちの人としてのうつくしさや、生きてきた時代背景、抱えている(押しつけられている)問題が自然と立ち上がって、そこに浮かんでいるものをこちらがゆっくり受け取れるような映像だった。 この映画がクィアの文脈として評価されない日が来るといいな、と思った。


母と妹が起きてきて、テレビをつける。テレビを普段見ないので、音やひかりが気になってしまう。自分だってスマホを観ながらご飯を食べたりよくするけど、テレビの過剰な音や演出は結構つかれる。テレビがある生活にすっかり慣れている母にそのことを伝えようとしたけど、ぜんぜん理解してもらえなかった。

わたしは外に散歩に出ることにした。


今月で閉店してしまう今井書店まで歩いた。ラジオを聴きながらいこうとおもったけど、イヤホンを耳に挿しただけでなんとなく満足してしまい無音で、八ヶ岳とかを見ながら歩いた。

新刊の欲しい本がいくつかあって、きっと売っているだろうと思って行ったけど、お店の人に尋ねてみると「今月閉店してしまうからいつもより入荷を少なくしていて、その本は仕入れがない」と言われる。

店員さんも申し訳なさそうだし、わたしもかなしかった。ここで買いたかったな……と思いながら、物を買いたいという気持ちが一気に萎んでしまった。

(レジへ商品を持って行って、お財布を出して、人にお金を渡して、お釣りを受け取る、という一連の動作で成り立つ”買い物”ってわたしにとってはかなり体力が必要で、精神的に大丈夫なときや体力がちゃんとあるときじゃないと買い物をするのがむずかしい)

わたしは買い物をあきらめた。また同じ道を歩いて家に帰る。

図書館も臨時休業中で、読みたい本がすぐに読めない状況に心が削られる。散歩をしながら、いろいろ考えたり、考えるのをやめたりしていたらだんだんと気持ちが落ち着いた。


生理前だからか食欲がいつもの3倍くらいあって、たくさん食べたのにお腹がすく。

自分の身体が自分のものじゃないみたいでこわい。そもそもからだをコントロールできると思っていることが間違いなのかもしれない。

半年前から婦人科でもらった薬を飲んでいるけど、ホルモンを過剰に分泌させる成分が入っていて、この期間は胸が張り裂けるんじゃないかと思うくらい痛い。皮膚が引っ張られて、そこに無数のちいさな針(リンパ?)が刺しこまれている感じ。

せっかく体重が安定してきたのに、また勝手にからだは膨らむし、重くなって、気持ちまで暗くなりそう。


いっそのこと、このままたくさん食べて球体になってしまってもいいかもしれない…とか考えていたら、猫が隣で丸まって眠っていた。

かわいいね、かわいくてえらいね、と言いながら、しつこく何度も撫でたらザラザラの舌で顔を舐められて、うっすら赤い傷のような痕ができた。その痕を触りながら、傷つけられてもうれしい、みたいなことがあるような気がした。




 
  • Writer: fuzuki hoshino
    fuzuki hoshino
  • Mar 17, 2023

朝、顔が眩しくて目を開けたら部屋の中がオレンジ色に染まっていた。 ここはどこだろう、と一瞬思って、海辺の宿に泊まっていたことを思い出した。

窓を開けて見ると、海に朝日が反射してすごく光っていて、眠っていたうめちゃんを思わず起こしてその様子を見せた。


私はそのまま着替えて、吸い込まれるように海の方に降りていった。なるべくはやく海岸に着きたかったけれど道のことがわからないから、とにかく一番早く下に降りれそうな急な階段を選んだ。真鶴の海はおだやかで、ほとんど波がない。


昨日の夕方も海岸でひとりぼーっとしていて、そのときに触ってみたら、海水は思ったよりもあたたかくて、なぜだかそのことにすごく安心した。 波が岩にあたって、じゃぶじゃぶ音を立てているのが心地よくて、この波にやさしく浸食されてきれいに無くなってしまいたいと思いながら波をみていた。

昆布とか、わかめがゆらゆらしていて、海の匂いがした。 最近ずっとなぜだかぼんやりかなしくて、だけどどうしたらいいのかずっとわからずにいたのだけど、その匂いを嗅いでいたら、そのかなしみは私のものではなくて、誰かのかなしみなのかもしれない、とふと思った。





太陽が昇りきるまえの海は、釣りをしているおじさんがひとりいた。

大きな岩を渡って、なるべく海の方に近づいてみる。どこかから船が戻ってきて、迷うことなんてないみたいに水面を滑って港の定位置に落ち着いた。

水平線のあたりは霞んでいて、その先になにがあるのかまったくわからない。

絵の具でわざとぼかしたみたいに、濁った水色が空と海の間にあった。


宿に戻ると、うめちゃんは起きていて、ほんとうに取り憑かれたみたいに部屋を出ていったね!と私を笑った。


朝ごはんまでの時間は手持ち無沙汰で、窓から海を見たり、壁に飾られていたすごい配色の絵を観察して、一瞬で飽きたりしていた。

そういえば、と思い出して、先日東京で撮ってもらった写真の現像があがってきたので、うめちゃんに見てもらった。

自分が写っている写真をこんな風に自然に人に見せた試しがないので、自分のその行動について少し意外に思いつつも、やっぱり誰かに見て欲しいんだな、と思ったり、それくらいうめちゃんにたいして心をゆるしている、というかひらいていたいんだな、と感じた。


「今までの文月ちゃんの写真って、いつでもどこかへ消えてしまいそうな危うさがあったけど、これはちゃんとここにいるね」とうめちゃんが言った。

わたしは、その言葉をもらえたことが結構うれしくて、「そう思う?」って何度もわざとらしく聞き返した気がする。


これまでの私は本当に自分がここにいるのかわからないから、確かめてみたくて、写真に撮られることが多かった(あまり共感を得られたことがない感情)。

だけど、この前撮ってもらった写真は、はじめて、自分が思う、そのままのかたちで写れた気がしていて、だからそれを人が見たらどう感じるのかを知りたかった。


何かに抵抗するみたいな形をとることでしか、「いる」ということができなかったように思う。いや、本当はずっと「いた」のだろうけど、時間?重力?何か目に見えないものに逆らったときにできる抵抗感みたいな感触をリアルだと思って生きてきたような気がする。

だけど、そんなことをしなくたって、ずっとここまで「いた」のだし、どうしてそれをうまく受け入れることができずにいるんだろう。


ご飯を食べて、今度はうめちゃんと一緒にまた海に行った。

太陽はすっかり高い位置にあって、水面がきらきら光っていて眩しい。

私は海をみるとその在りかたに何度でも新鮮に感動できてしまうのだけど、それは自分がずっと海のない長野県で過ごしていて、小学五年生まで一度も本物の海を見たことがなかったことが関係しているのか、そんなことは特に影響していないのかわからない。


思いがけず春の海に来れたことがうれしくて、自分がここにいても、いなくても、うれしいと思えた気持ちがあったことを残しておこうと思った。



 

​日報

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